共謀罪だった治安維持法
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この間、横浜事件の摘発が進められていました。
この事件が横浜事件と呼ばれるのは、関係者の取り調べが『カナトク』と云って、拷問の激しいことで恐れられた神奈川県特高警察により、横浜市内の警察署で行なわれたからです。
発端は、「改造」の十七年ハ・九月号に掲載された評論家細川嘉六の論文でした。
「世界史の動向と日本」と題する論文は、情報局の事前検閲をパスしていましたが、
陸軍報道部は「共産主義の宣伝」と断定し、改造は発禁処分になり、細川も九月十四日、出版法違反で警視庁に逮捕されたのです。
「カナトクは」その二日前の九月十二日、日米交換船「浅間丸」でアメリカから帰国したばかりの労働問題研売家川田寿夫妻を逮捕していました。
アメリカ共産党の指導の下に、日本共産党再建の活動をしたと云う治安維持法違反(共謀罪)容疑です。
関係先を捜索するうちに、一枚の写真が見つかりました。
それは細川が本の印税が入ったので、日頃世話になっている中央公論や改造の社員を郷里の富山県迫町に招いて、大いに浩然の気を養おうと、旅館の前で撮った記念写真でした。
ところが「これこそ、細川を中心とする共産党再建謀議の動かぬ証拠だ」と云うのです。
十八年五月二十六日のことですが、写真に写っていた全員を手始めに芋蔓式の検挙が始まり、細川も「カナトク」に身柄を移されて治安維持法違反(共謀罪)に切り替えられました。
戦後、出所直後に激しい拷問で亡くなった改造編集者の相川博は、手記にこう害いています。
『八名の警察官か取調室にずらりと並び、竹刀を折って作った三尺くらいの竹を持ち、直ちに私の両手を後ろ手に縛り上げ
『共産党の組織を云え、細川がスターリンで貴様は秘書か。
下部組織を云え、泊で共産党再建の協議会を開いたろう』。
私の頭髪をつかんでコンクリートの上を引き回し、
頭、両頬、両肩、同郷両腕を実に約一時間にわたり、数人か入れ替り立ち替りカー杯に打ち、
靴でけり、顔、頭を踏み付けた」。
特高の描いた筋書きは、こうでした。
雑誌編集者や知識人が、雑誌や地位を利用して共産党再建の運動を行い、人民戦線を形成して知識階級の反戦気運を煽ろうとしたのだ。
十九年一月には、検挙者は朝日新聞、岩波書店などにも広がり、六十人に連しましたが、こうした激しい拷問が敗戦まで、連日のように続けられたのです。
そして中央公論と改造は十九年七月十日、情報局により『自発的廃業』の形で解散させられました。
横浜事件こそは、典型的な「作られた権力犯罪」でした。
しかも問題なのは、もう戦争が終わったと云うのに、横浜地裁が二十年八月三十日から九月にかけて、三十三人にバタバタと懲役二年、執行猶予付きの判決を下したことです。
それもたった一回、非公開の公判を開き、意見陳述の機会も与えないままでした。
事件の端緒となった細川の方は、公訴事実を否定して徹底抗戦を貫いたため、まだ裁判が続いていて、十月十五日に治安維持法(共謀罪)そのものが廃止され、免訴になっています。
同じ事件の被告たちの、わずか一か月の差の明暗でしたが、
横浜地裁の態度は法の精神を忘れた、『やつっけ公判』と非難されても仕方ないでしょう。
『カナトク』の拷問警官は、昭和二十二年に三十人余りが人権蹂躙、傷害で告訴されましたが、証拠いん滅されていて、ほとんどが証拠不十分で不起訴です。
わずかに三人だけか、被害者の体に残っていた拷問の傷跡が決め手となり、二十七年四月に有罪判決を受けましたが、それも控訴、上告して争っているうちに、講和恩赦により刑を受けずに終わったのです。
何とも理不尽な話ですが、元被告や遺族たちは昭和六十一年七月、『特高の拷問や虚偽の自白に基づく判決は無効だ』と、再審請求を申し立てました。
ところが横浜地裁は、「当時の裁判記録かなくなってしまって、事実が確認出来ない」と云う理由で棄却したのです。
最高裁まで争われましたが、第二次請求も同じ理由で棄却されました。
そこで第三次請求は平成十年八月、全く違う切り口で「ポツダム宣言受諾の時点で、治安維時法(共謀罪)は効力を決っている」と、法令適用の誤りを理由としたのです。
その結果、横浜地裁か昨年の四月十五日、再審開始を認める決
定を下したことは、皆さんご承知の通りです。
第1次再審請求以来十七年ぶりのことで、再審が始まれば免訴になる公算か極めて大きいと云われます。
この決定が「せめて一か月半早く出ていたら」。
この思いが強くするのは、元被告の最後の生存者、板井庄作さんが昨年三月三十一日、八十六歳で亡くなったことです。
板井さんは昭和十四年に東京帝人電気工学科を出て、逓信省の電気庁に入りましたが、仲間と作った「政治経済研究会」が共産主義の宣伝活動と見倣され十八年九月に逮捕されたのです。
懲役二年執行猶予三年の判決を受けましたが、再審請求の時、
「過去の過ちが正さなければ、これからも同じ過ちが繰り返される。
裁判では一度も言い分を聞いて貰えなかった。
生き残りは僕だけになった。
犯罪者として一生を終えたくない。
死ぬに死ねない」
と語っていたそうです。
1945年
占領軍の指揮官のマッカーサーは、日本の徹底改革&天皇制維持の姿勢を決めていた。ワシントン政府は、日本の改革・天皇制いずれにもフラフラしてた。結局はマッカーサーが独断専行で決めていく。
そのマッカーサーを、日本国民は熱烈歓迎する。
ここで労働基準法を作り組合活動を合法化し、戦前・戦中に拘束されていた社会主義者・共産主義者が釈放される。
1945年10月4日、
マッカーサーから治安維持法の廃止を要求された日本の東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した。
すなわち、日本の支配層は、敗戦後に、弾圧した国民の復讐を恐れ、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした。
しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。
「共謀罪」とは何か。
具体的な犯罪行為がなくとも、2人以上が話し合い、犯罪の合意があるだけで処罰対象となる。
------共謀罪の事例-------------------------
1932年11月12日、東京地方裁判所の判事・尾崎陞が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁の書記4人とともに逮捕された。
翌1933年2月から3月にかけては
長崎地方裁判所の判事と雇員各1人、
札幌地方裁判所の判事1人、
山形地方裁判所鶴岡支部の判事と書記各1人
も相次いで逮捕された。
逮捕された9人の容疑内容はいずれも
「研究会を開いた」
「カンパに応じた」
「連絡を取り合った」
などの行為だったが、
日本共産党の目的遂行のために(準備する)おこなった行為とみなされ、全員が有罪判決を受けた。
(これらの行為は、 政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を罰する治安維持法の 逮捕要件を満足する )
これらは、共謀罪の逮捕要件を、満足する。
-----事例おわり-----------------------------
これまで「団体」としていた適用対象が「組織的犯罪集団」に変わった。市民団体や労働組合を標的にした乱用の恐れがあるとの批判をかわしたつもりだろう。一方、謀議だけでなく、犯罪実行の「準備行為」も罪の構成要件に加えた。
犯罪集団や準備行為の定義はあいまいで、捜査当局が組織的犯罪集団か否かを判断する構図は変わらない。恣意(しい)的な判断による立件の恐れがある。謀議や準備行為を巡り、盗聴や密告奨励など監視社会が強まる危険性は拭えない。
治安維持法の下で言論や思想が弾圧された戦前、戦中の反省を踏まえ、日本の刑法は犯罪が実行された「既遂」を罰する原則がある。
政府は「共謀罪」をテロなどに対処する国連の「国際組織犯罪防止条約」への加入条件とするが、現行刑法でも予備罪や陰謀罪など、未遂以前の段階で処罰する仕組みはある。
「児童を保護するため」と言った児童ポルノ規制法は、実際は、
でした。
(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計のうち、「平成25年中の少年非行情勢について」の報告による)
同様に、「国民をテロから保護するため」と言うテロ準備罪は、
「国民を逮捕するための法律」のようです。
また自民党は、テロ準備罪(治安維持法)の成立に向けて、以下の憲法改悪案で運用したいと考えているようです。
(憲法36条)公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
自民党案では:「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁ずる。」に変えます。
テロ準備罪(治安維持法)の運用等で止むお得ないと総理大臣(安倍)が判断した場合は、拷問を許可するようです。