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seeing’s diary

転載は自由にどうぞ

なぜ太平洋戦争中の日本はバカだったのか

(ブログ目次はここをクリック) 

http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2015072402000076.html

日本陸軍のフィリッピンの戦没者は、敗戦直後に77%が飢え衰弱で病死した
(1945年初めに14%前後だった病死率は徐々に増加し、敗戦直後の九月には77%に上った。)

 

日中戦争や太平洋戦争の戦没者230万人:6割「餓死」の学説も=無謀な作戦が惨劇招く

2014年08月15日

 

 歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。

著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。

さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。

 

 個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。

「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、

ガダルカナル島の戦い」(1942年8月?43年2月)では、

日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。

その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。

 

太平洋戦争戦跡地

戦没者の60%強140万人は餓死であった

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

230万人はどのように戦死したのか?

◆「英霊」たちの区分けⅡ――百数十万の日本兵の大量餓死は、なぜ引き起こされたか
ニューギニアでは、数次にわたって14万8000人の大兵力が送りこまれ、その90%を超す13万5000人が亡くなりました。自決した方面軍司令官の安達中将が「その大部は栄養失調に起因する戦病死」と記したように、原因は餓死でした。)

インパール帰還兵の証言二
(半死の状態の者は自殺用に「手榴弾をください」と訴えた。だめだというと「私を殺してください」と哀願してきた。長い軍隊生活の中でも、これほどの惨状は初めてだった。)
(インパール作戦は「糧は敵から奪うので何とかなる」という作戦だった)
(この指揮官は、安倍内閣のように部下の慎重論に一切耳を貸さなかった。あげくは、作戦に参加した3人の師団長を全員解任、更迭した。)

 

 次に、兵隊たちの過半数が餓死した戦争に至る歴史を見ます。


-日本の、 「科学を論じないしきたり」 の歴史的背景-
戦時体制下における教育思潮
から引用。

 

1917年(大正6年)から1918年(大正7年):
 第一次大戦(~1918年)の好況に社会の一部は潤いながらも、

米をはじ めとした物価は高騰を続けた。
米騒動(1918年)小作争議(1922年~)労働争議(1921年3万人の争議)(1922年~)

など、

社会全体が大きな動揺をしていた。
 また、河上肇の個人雑誌『社会問題研究』や山川 均等の『社会主義研究』等により社会主義運動が活発化した。

 

(当ブログのコメント)江戸時代では、百姓一揆を弾圧し首謀者を見せしめに処刑していたが、大正時代の政府は小作争議に対しては、問題を根本的に改善する農地改革の知恵を出した。

 しかし、労働争議に対処する知恵は出さなかったように思います。

 

1919年から27年まで、

 日本の工業生産の増加率は欧米諸国を越えていたのであるが,
このような工業発展は,中国市場を中心とする国際的進出と,国内における労働条件の低水準維持策とによって,一応支えられていたのであった。

 

1919年には、コミンテルンが成立し、共産主に基づく世界革命の可能性が現実味を帯びていきました。

 このような状況に対して、原内閣は社会主義団体の監視強化、労働運動に対する融和、そして思想善導といった対策を実施しますが成果は乏しいものでした。

 

1921年には、その手詰まり感を背景として、過激社会運動取締法案が検討されるに至った。

 この法案は、共産主義者による国内での思想宣伝行為に対処することを目的として成立が企図されたが、法案があいまいであったので廃案となった。

 しかしこのような失敗は、まさに治安維持法成立のために必要な条件と表裏一体であり、法案からあいまいな文言及び宣伝罪を排し、内務省と司法省が協力し、両院を説得し、1925年に治安維持法を成立させるに至った。

 

1922年に、非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党創立された。

1923年9月1日、関東大震災: 震災直後に緊急勅令で治安維持令が公布された。

1923年に、日本共産党の大検挙。

1924年、全国高校で、社旗禁圧・暴圧反対運動。
1925年、一高・三高の研究会解散命令に対する学連の抗議運動。

 

1925(大正14)年、政府は大正中期以降の反体制運動の高揚に対して,普通選挙法と治安維持法を制定した。
治安維持法制定当時、政府は「慎重に運用」「一般国民とは関係ない」と説明した。


《2015年現在の状況は、1925年当時の状況と類似している。2015年施行の「秘密保護法」「集団的自衛権関連の法律」が1925年の治安維持法に対応すると思われる。》

1925年末から1926年初め、京大生を中心とする治安維持法・出版法違反事件がおきた。

 

1927年:日本での「金融恐慌」

 

1928年6月には,治安椎持法が改正された。
---------補足-----------

・1928年の治安維持法の改正の趣旨
 この時の改正は2つの目的を持っていました。
①一つは 結社罪の最高刑を 死刑 としたこと *2
②もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
 特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。

 この改正(改悪)は、 政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を治安維持法違反にしたという意味を持つ

---------補足おわり------

 

第1の思想弾圧事件(3.15事件)

 

 1928年3月15日:第一回普選(1928年2月)での無産政党共産党)の進出に脅威を持った政府は,選挙直後の3月15日,全国いっせいに日本共産党・労農党・労働組合評議会・無産青年同盟の関係者を多数検挙し,さらに労農党以下3団体の解散を命じた。(3.15事件)
(逮捕者の中に学生150名が含まれていた)

 

治安維持法違反被疑者の弁護人も逮捕される

 3・15事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された。

 さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された。

《日本労農弁護士団事件》1933年9月~11月,日本労農弁護士団に属する左派系弁護士30人が検挙された。

 その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。

 

1928年7月には,内務省に保安課が新設され,思想取締まりにあたる特別高等警察を全国に設置し,憲兵隊に思想係を設置するなど,その権力は思想にまで介入することになり,反体制運動への弾圧が強化されたのであった。

 

1928(昭和3)年12月1日,政府は教学振興・国体観念養成を声明して, 「 思想善導(青少年健全育成) 」 への方向で,翌29年8月に,文部省は 教化総動員 の運動を企画し,これを全国的規模で推進した。

(当ブログのコメント: 思想善導 は、現代の日本の 青少年健全育成 に対応する概念です。)

 

 (中略)

 

★1928年に、文部省内に学生課(後の1934年の「思想局」の前身)を設置し、組織的に学生の思想を取り締まった。

 

1929年3月:国会議員の山本宣治(死後に共産党員に加えられる)が、国会で思想善導(「青少年健全育成」に対応する)について質問した後の3月5日に暗殺された。

 

(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。

 

 また、戦後の日本政府は、(弾圧した国民の復讐を恐れ)、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした

(1945年10月4日、GHQから治安維持法の廃止を要求された東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した)

 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、

戦前の治安維持法も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。)

 

第2の思想弾圧事件(4.16事件)

 

1929 S(4)4.16事件

・3.15の思想弾圧後に再度、全国規模で全国一斉検挙 700名検挙

 報道禁止されていた

・知識階級の子弟が多く支配者層はショック

共産党にとっては壊滅的な打撃 活動は以後地下にもぐる

・日本軍の山東出兵反対運動主流派逮捕される

・1929.11.5 新聞報道を解除し「共産党事件」と発表

・幹部党員には無期懲役などの重い刑

 

1929年に、文部省内の学生課を学生部に昇格させ(後の1934年の「思想局」の前身)、学生の思想の取り締まりを強化した。

 

第3の思想弾圧事件(司法官赤化事件)

 

1932年:司法官赤化事件:

 1932年11月12日、東京地方裁判所判事・尾崎陞が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁の書記4人とともに逮捕された

翌1933年2月から3月にかけては
長崎地方裁判所の判事と雇員各1人
札幌地方裁判所の判事1人
山形地方裁判所鶴岡支部の判事と書記各1人
も相次いで逮捕された
 逮捕された9人の容疑内容はいずれも
研究会を開いた
カンパに応じた
連絡を取り合った

などの行為だったが、
日本共産党の目的遂行のためにおこなった行為とみなされ、全員が有罪判決を受けた。

 

(これらの行為は、 政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を罰する治安維持法の 逮捕要件を満足する

 

これらは、共謀罪の逮捕要件 を、満足する。

 

 

第4の思想弾圧事件((長野県と)全国教員赤化事件)

 

1933年 2月4日:

 長野県で教員が思想問題で多数(66校、230名)検挙される(長野県教員赤化事件)。

 この事件を契機に、全国各地で同様の弾圧が行なわれ、1933年12月までに岩手県福島県香川県群馬県茨城県、福岡県、青森県兵庫県熊本県沖縄県で多数の教員が検挙された。

 

第5の思想弾圧事件(滝川事件)

1933年:滝川事件

 1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた 裁判官・裁判所職員が検挙される 「司法官赤化事件」 が起こった。
 この事件をきっかけに、5月26日、文部省は文官分限令により
京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の休職処分を強行した。
滝川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示した。

 

1934年に、

(1)文部省の学生部(1928年に設置した学生課)を 「思想局」 へ昇格させた。

(2) 国民精神文化研究所が、文部省の直轄する研究所として発足した。
 これらが教学思想を確立するための活動を開始させることとなった。

 

1936年に設置された「日本諸学振興委員会」が,学問領域の全般にわたって「日本学」の方向を打ち出した。

 

あらたな取締対象を開拓

 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。

(1935年から1936年にかけて、予算減・人員減があった)

 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。 

 

治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。

 

1937年3月には思想局(1928年の学生課)から『国体の本義』7)が発行されて、教学刷新の基準が明確にされた。

 

1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である 思想局 (1928年の学生課)が、文部省外局 「教学局」 に昇格され,学問研究に対する統制の中枢をなした。

 

(当ブログのコメント: この 教学局は、 1937年に開始された、「国民精神総動員」運動の名のもとに先の教化総動員を再編成した大規模な 日本精神発揚の教化運動 を推進する中心であり、教化運動を計画する本部です。安倍内閣を支配している「日本会議」は、この、「 大規模な 日本精神発揚の教化運動 」を理想としていると推察します。)

 

1937(昭和12)年 の第一次近衛内閣時代には, 日中戦争の開始 (同年7月7日)という国際的危機にあって, 「国民精神総動員」運動の名のもとに,先の教化総動員を再編成して,大規模な 日本精神発揚の教化運動 が展開されることになる。戦争開始直後の8月24日に, 閣議で 『国民精神総動員実施要綱』6)が決定され,内務・文部両省を中心に運動が推進された。

(当ブログのコメント:安倍内閣が、 閣議で 『集団的自衛権』を決定したことが、この戦前のやり方に似ている)

この運動には, 全国神職全国市長会帝国在郷軍人 の他,労働組合組織など多数の団体が参加し,

(当ブログのコメント:「日本会議」はこの運動と同じく、神職会と軍人会から構成されていますね)

近衛内閣は,その運動目標として,挙匡一致・尽忠報国堅忍持久を掲げ,国体観念の宣伝,注入に努めた。

 さらに,部落・町会・隣組など隣保組織まで行政組織の末端に組入れて,上意下達の道筋を確立しようとした。
 1938(昭和13)年には,地方道府県国民精神総動員実行委員会 が活動し,地方官僚を中核に殆ど全団体の代表者を網羅した委員会の主導によって,

懇談会・講演会・映画会の開催,
ポスター・パンフレット・ビラの配布,
新聞・公報・ラジオ放送などによる宣伝,
また,祈願祭の執行,
奉公歌歌詞募集・寄金募集など,
その他,強調週間の実施などの諸行事が推進されたのであった。
 1939(昭和14)年4月,平沼内閣時代に,

国民精神総動員委員会第二回総会は,
「国民精神総動員新展開の基本方針」 を決定した。

平沼内閣のもとに,荒木貞夫大将を文相に置いたが, その主導で,
総理大臣直轄の委員会と地方府県の主務課の設置によって, 右翼団体を始めとし,その他の教化団体と行政系統とを駆使して, 皇道主義・一君万民思想の普及に徹することになった。
 1940(昭和15)年の第二次近衛内閣に至り,先の総動員本部は解散されて,生活組織を基礎に全国民を対象とする 大政翼賛会 の組織による運動が実施されることになった。

・・・

 1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である 教学局(1928年の学生課) が文部省外局として設置され, 学問研究に対する統制 の中枢をなした。

 

・・・

算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である 批判的精神を除却(除去)し た合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずに ゆっくりと 国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。

・・・

戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは, 国体論と精神主義を柱とする天皇イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
 科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
 したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で 大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である ,という認識であった。

<・・・

 ところで,1938年に, 一部軍需産業は好況を招き ,労働力不足は一定の賃金上昇をもたらした。 

・・・

 やがて戦争の影響が国民の日常生活の次元にまであらゆる角度から押し寄せてきた時に,多面的な生活科学への要求がおこってくる。 

・・・

しかし, 「科学」の名称が一定の効用をもつのもこの一時期を限りのものであった 。 

・・・

 しかし戦争の激化は,生活理念において 「科学」に代って再び「精神」が重視される ことになる。
太平洋戦争下において,それは「決戦生活」という言葉で表現された。 

・・・

 

1940年1月 「生活図画事件」
(生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。)

 

 大熊信行が,1943年7月から11月まで「婦人公論」に連載していた『新家政学』は,軍の干渉により執筆禁止となった。
その理由は,内容に天皇中心思想を欠くというものであった。
これは明らかに, 科学に代る精神主義が再び重視されてきた ことを意味している。 

・・・

  このように,戦時下の生活科学構想はそれ自体戦争協力の学でありながら,しかも権力と精神主義の攻撃の前に崩れていったのである。

 (もっと読む)

 

(注意)安倍政権を支配する「日本会議」が目指す戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは,国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,それは あらゆる非科学性の根源であった。

 

1945年に、

22歳の司馬遼太郎が栃木県佐野市で陸軍少尉として終戦を迎えた。
その時に、大本営からきた東北人の少佐参謀が、
アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に、栃木から東京に移動して攻撃を行うという作戦を命令した。
その命令の遂行方法に関して、ある若い将校が、
「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」
と参謀に聞いたところ、
参謀は

「轢き殺してゆく」

と言った。
司馬遼太郎は、その参謀の返事を聞いて、
「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」
との疑問を持った。
司馬遼太郎は、その疑問に対する答えとして、
「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として、
「過去の22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた。」
と述懐している。


第41回 インパール作戦

 

 これからお話するインパールは、竹山道雄さんの小説「ピルマの竪琴」の舞台にもなっ た戦場です。

お読みになった方も多いと思いますし、映画にもなりましたが、インパールガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦いが行われた所です。

「酸鼻を極める」という言葉がありますが、インパールがまさにそうでした。

1944年三月から始まったインパール作戦には、第十五軍司令官牟田口廉也中将が指揮する三個師団を中心に、約十万の将兵が参加しましたが、進撃と攻防四ヵ月、作戦が失敗に終わり、その敗走は一千キロ、五ヵ月にも及びました。

三万五百二人が戦死し、戦傷病者四万一千九百七十八人。

損耗率実に72%という莫大な犠牲者を出したのです。

 

 中でも悲惨だったのは、犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、食べるものがないための栄養失調、赤痢マラリアで体力を消耗し、猛烈な豪雨の中での敗走中に倒れたことでした。

撤退して行く道は日本兵の死体だらけ、蛆虫が小山のようにたかっています。

蛆というのはあんなにちっちゃくても、これだけ集まると、人間の死体なんてもう一日で完全に食い尽くしちゃうんだそうです。

下がれば下がるほど、道の両側は日本兵の白骨で埋まり、兵隊たちは退却路を「白骨街道」、また靖国神社へ行く道だというので、「靖国街道」とも呼ぶようになったのです。

 

司令官の牟田口は作戦に反対した参謀長を更迭し、部下の反論、慎重論にも一切耳を貸しませんでした。

あげくは作戦に参加した三人の師団長を全員解任、更迭するといった、日本の陸軍史上にも例を見ない異常な事態を招いています。

問題点は、早くから数多く指摘されていたのに、大本営も「現地指揮官が出来ると言うから、やってみる」。

こんな程度の、心許ない作戦発起だったのです。

 

インパールだけではなく、ガダルカナルでもそうでしたが、
「行け行け、どんどん」の積極論だけを良しとし、慎重論を腰が引けていると見倣しがちな日本陸軍の体質にも、「インパール悲劇」の種があったように思います。

 

二月八日にチンドウィン河を渡って来たイギリス軍のウィングート少将率いる挺身部隊に、当時牟田口が師団長の第十八師団は翻弄されたのです。
イギリス軍の兵力は三、四千人と少ないものでしたが、昼間は密林に潜伏して無線進路により空中補給を受け、夜になると攻撃を仕掛けて来ます。


第十八師団は東奔西走一ヵ月、何とか撃退は出来たものの、牟田口は「ここからは攻めて来ない」と思っていたアラカン山系の峻険が、意外に安全ではないことを思い知らされたのです。


牟田口は、イギリス部隊の行動が十分な空中補給があって初めて可能なんだという、この一番重要な点を見落としていたのです。

 

第十五軍参謀長になった小畑信良少将は、「補給の権威」と言われた人で、

「補給上、到底無理だ」。

こう反対意見を述べると、たちまち更迭されてしまいました。

・・・

・・・

 実は、インパール作戦がまさに始まろうとしている時、その三日前の三月五日夜、重大な警報が出ていたのです。ウィングート少将率いる空挺部隊ビルマ北部、第十五軍の背後に降下して来たのです。

ビルマ防空を担当する罫五飛行師団長の田副登中将は、すぐ牟田口の所に駆け付け、

インパール作戦を中止し、この敢に当たるべきだ」。

こう進言したのですが、牟田口は聞きません。

「単なる後方撹乱だろう」

と言うのです。

田副は空からの偵察で、集城資材を空輸していることを掴んでいました。しかも第五飛行師団は、一月に爆撃機五十四機が南方戦線に転用され、実働可能機数は百機ほどに減っています。

「敵は飛行場を建設するでしょう。そうなればビルマは内側から混乱し、インパール部隊への補給も中絶することになります」。

第十五軍の援嘆が出来なくなると訴えたのですが、牟田口の作戦計画には最初から航空支援は入っていません。

飛行師団に求めたのはチンドウィン河渡河の際の戦闘機による援護だけで、飛行機の力というものを全く軽視していました。

「敵は自ら求めて袋の鼠になった。虎の子の空挺を降ろしてきたことは、これ以上の幸いはない。空挺作戦に注意を奪われている虚に乗じて、インパール攻略を断行する」

と言うのです。

田副はラングーンにも飛んで、河辺方面軍司令官にも作戦中止を求めたのですが、河辺は

インパール作戦は始まったばかりだ。たとえ方面軍がやめると言っても、もはや大本営はお許しにならないだろう」

と、受け付けません。

 

 ところが、この空挺部隊はそんな生易しいものではなかったのです。イギリス軍はまず百機のグライダーに二個旅団、九千人を乗せ、グライダーは使い捨てにして、兵器、弾薬と共に大量の築城資材を空輸していました。

強固なコンクリート陣地を作り上げると、飛行場建設にかかり、さらに二個旅団を送り込んで来たのです。

イギリス第四軍司令官のスリム中将は、空からの偵察で日沸軍のインパール作戦の動きを的確に掴んでいました。

手薄になった第十五軍の背後に空挺部隊を送り、ビルマ北部、中部一帯から日水軍の一掃を狙った作戦だったのです。

・・・・

インパール作戦の部隊は、「上空を飛び回っているのはイギリス機だけ」と嘆くことになり、空からの攻撃で大きな打撃を受けることになるのです。

・・・・

・・・・

 しかも、一見順調に見えた日本軍の進撃は、イギリス軍にとっては予定の行動だったのです。

スリム中将は、第十五軍の後方に空挺部隊を送ると共に、十五軍正面の部隊には後退作戦をとらせました。

日本軍に険しい山越えをさせて疲れさせ、インパール盆地に誘い込んで、補給路が延び切ったところで叩こうというのです。

形の上では日本軍が包囲していても、イギリス軍の抵抗は円筒陣地を構築して頑強でした。

砲兵を真ん中に置いて、その周りを円を描くように戦車、重火器で固め、こうした防御陣地が蜂の巣のように配置されています。

陣地同士は無線で連絡を取り合い、上空には飛行機がひっきりなしに飛んできて、攻撃、補給に当たります。

まあ、どっちが包囲しているのか、分からないようなものでしたが、戦線が膠着してくれば、補給無視がまず糧食欠乏となって、じわじわやって来ました。

 

 コヒマでは、一面のテニスコートを挾んで、わずか40~50mの間に日英両軍が対峙していたんだそうです。

話し声も聞こえるし、朝には朝食の匂いがプーンとして、すきっ腹にこたえました。

わずかにありついたのが、空からの『敵さん給与』です。

イギリス軍輸送機が色とりどりのパラシュートで補給物資を投下したのですが、お互いの第一線が余りにも近過ぎたため、かなりの量が日本軍の方に落下しました。

茶色の麻袋を開けると一斗缶が四個。

その一つずつにバン、ミルク、煙草に缶詰、チョコレートからブランデーまでぎっしり詰まっています。

それに引き替えわが兵糧といえば、焼き米に岩塩。

それさえなくなって、兵隊たちは牟田口が「食欠乏せぱ、敵を蹴散らしてこれを取れ」。

こう言っていたのを知っていましたから、「冗談じゃねえ。てめえがここまでやって来て、蹴散らしてみろってんだ。

無駄口ばかり叩きやがって…」と、怒ったそうです。 

・・・・

・・・・

 東条の「インパール作戦継続」の命令は、「インパールの悲劇」を最小限に食い止める最初のチャンスをつぶしただけではなく、かえって第十五軍を督励し、苛酷な戦闘を強いる結果になっていきます。 

・・・・

・・・・

 インパールの戦いで、「作戦決定」以上に無責任だったのが、「作戦中止」の決断だったと言ってもいいでしょう。

・・・・・

 作戦中止の決定までに、何と時間のかかったことか。

しかし作戦は中止されても、悲惨な撤退はまだまだ続いていたのです。

マラリア赤痢、そして飢えに喘ぐ兵隊たちは、猛烈な豪雨の中、三々五々と長蛇の列を作り、泥濘(でいねい:ぬかるみ)の道をよろめきながら、ひたすら歩きました。

イギリス軍の爆撃、戦車に追われ、山道にハシゴをかけ、木の根を伝って逃げましたが、小銃は捨てても飯倉だけは放さなかったそうです。

道端には、行き倒れの兵隊が増えていきました。

虚ろな目を間いたまま、願中に群がる蝿を追い払う気力もなく、忍び寄る死を待つだけ。

ボロボロの軍服の兵隊が夢遊病者のように寄ってきて、

「兵隊さん、お願いです。米を…」

とすがります。

兵隊が兵隊を見て

「兵隊さん」

と言う。

まさに「兵隊乞食」でした。

 

 朝日新聞記者として従軍した丸山静雄は、爆音が聞こえて、橋桁の下に駆け込むと、兵隊が一人寝ています。敵機が去ってホッとしてその兵隊を見ると、白骨の兵隊でした。

頭蓋骨が戦闘帽をかぷり、白骨の手が手袋をはめ、白骨の足が靴を履いていると言うのです。

丸山は「インパール作戦従軍記」に、書いています。

 

 「死体はポツンと、ただ一体だけ横たわっているようなことはなく、一体の死体のあるところには数十の死体が続いていた。

人間は孤独であるとか、孤独を愛するなどというが、やはり一人ぽっちでは死ねないのであろう。

よく見ると、死体の横たわっている側はやや高く、山径に面して勾配があり、あたりにはあまり木がなく、比較的明るくひらけていた。

濃密なジャングル内の薄暗く、ジメジメした地域や湿地帯にはあまり死体はなかった。

やはり、こざっぱりした少しでも美しいところで最後は息を引きとりたかったのであろう」。

悲しい話です。

・・・・

・・・・

 インパールの日水軍将兵は、圧倒的な戦力の違いの中で実によく戦いました。

悲惨な敗戦の責任は、全て牡損な作戦計画を強行した牟田口にありましたが、

当の本人は最後まで自己弁護に終始したのです。

昭和四十年代、新聞社やテレピ局、雑誌社を訪ねては、『わが作戦に誤りなし』と吹聴して回る牟田口の姿が見られました。

そして丸山記者の「インパール作戦従軍記」を読むと、「牟田口の下に、この将軍あり」といった感じの、ひどい将軍の話が出てきます。 

 

 

『敗北を抱きしめて』(岩波書店)歴史家ジョン・ダワー著

 

1945年4月から6月まで続いた沖縄戦では、1万人以上のアメリカ人が死んだ。11万人以上の日本軍が壊滅した。沖縄住民の約3分の1、おそらく15万人におよぶ男女と子供が殺された。

 

 日本の降伏により、日本軍の実態が明らかになった。日本軍の集団としてのまとまりや規律は、軍部がくりかえし宣伝した「忠」とか「和」とかいった理念の上にではなく、実は上からの抑圧を強制していく権威主義的な仕組みの上に築かれていた。上官は、尊敬よりも恐怖によって命令を徹底させていた。そのため、敗戦になると、それまで抑圧されていた深い復讐願望が一挙に解放されることになった。

 極端な場合には、そうした敵意から、元上官を殺害した者もいた。

 降伏後、こうした感情は、はじめて公然と表現された。ある復員軍人は、自軍の指揮官たちの暴虐によって殺された戦友たちの霊を、どう慰めたらいいのかと問いかけていた。昔の言葉に、敵を「冥土の土産にする」というのがある。これは自分が死ぬときは敵を道連れにするという意味であったが、自分の戦友たちは、いざ玉砕のおりには敵ではなくて上官の1人を冥土の土産に連れていくつもりであったと述べている。

 日本の降伏の前には考えられなかったこうした実態暴露は、「1億1心」なる戦争中の宣伝が、たわ言にすぎなかったことを白日の下にさらした。

 

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 この日本軍の体質は、太平洋戦争中は日本の支配下にあった韓国の軍隊にも遺伝しているのではないか、と推察します。
(1)韓国軍での乱射事件捜査結果を発表(韓国軍内のいじめが原因)(2014年7月15日)
(2)2014年7月31日、韓国海軍の「要注意(関心)兵士」が、所属していた軍艦内で首をつって自殺していたことが分かった (2014年8月1日)
(このところ韓国では、6月にGOP(一般前哨)銃乱射、7月27日には陸軍兵士2人が自殺と、同様の事件が相次いでいる。)
(3)韓国軍の兵士集団暴行死で引責:韓国陸軍参謀総長が辞意(2014年8月5日)
(4)韓国で軍人による犯罪は昨年7530件 過去5年で最多(2014年8月7日)
(5)韓国軍兵士の4割がうつ病、日常的ないじめなどが原因(2014年8月18日)

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1945年

 占領軍の指揮官のマッカーサーは、日本の徹底改革&天皇制維持の姿勢を決めていた。ワシントン政府は、日本の改革・天皇制いずれにもフラフラしてた。結局はマッカーサーが独断専行で決めていく。

 そのマッカーサーを、日本国民は熱烈歓迎する。
ここで労働基準法を作り組合活動を合法化し、戦前・戦中に拘束されていた社会主義者・共産主義者が釈放される

1945年10月4日、

 マッカーサーから治安維持法共謀罪)の廃止を要求された日本の東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した。

 すなわち、日本の支配層は、敗戦後に、弾圧した国民の復讐を恐れ、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした

 

 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、

戦前の治安維持法共謀罪)も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。

 

 

「児童を保護するため」と言った児童ポルノ規制法は、実際は、

「児童ポルノ単純所持罪は児童を逮捕するための法律かも」

でした。

(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計のうち、「平成25年中の少年非行情勢について」の報告による)

 

同様に、「国民をテロから保護するため」と言うテロ準備罪は、

「国民を逮捕するための法律」のようです。

 

もう一度言う、福島原発事故の主犯は安倍晋三だ! 第一次政権時に地震対策拒否、事故後もメディア恫喝で隠蔽…
2016.03.11
京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員(共産党)は、2006年3月に、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問。第一次安倍政権が誕生 して3カ月後の2006年12月13日には「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に 提出。「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性 があることを指摘した。

 同年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名での答弁書では、吉井議員の以下の質問に以下の返答をした。

(吉井):「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか。」
(安倍):「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である。」』 

 

 【 特定秘密保護法、自由主義社会からの脱落への途を歩み出した日本 】
AP通信 / ワシントンポスト 11月26日
(自由・平等を保障する民主主義に、キバをむき始めた安倍政権
「日本の報道の自由に対する深刻な脅威」国外の有識者からも深刻な懸念
国民の監視の目が届かないところで、国民の目に触れることなく、自分たちが望む形にこの国を変えてしまうための環境づくり)

また自民党は、テロ準備罪(治安維持法)の成立に向けて、以下の憲法改悪案で運用したいと考えているようです。

憲法36条)公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

自民党案では:「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁ずる。」に変えます。
テロ準備罪(治安維持法)の運用等で止むお得ないと総理大臣(安倍)が判断した場合は、拷問を許可するようです。